KIWI LIFE of MOANA

世界の果てニュージーランドからKIWIとの国際恋愛や日常生活、それからニュージーの福祉/教育を発信!ワーホリ・ギリホリの人を応援したい情報ブログ。

≪Twitter 炎上案件?≫国際恋愛と私が「外国人」をパートナーに選んだ理由

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どうやらTwitterでは国際恋愛に関する考え方について定期的に炎上しているらしい。

 

らしいというのは、あえて元をたどっていないので詳しくはわからないということ。

 

勝手に流れてくるタイムラインを推測するに、

・Twitterアカウントに相手の国旗を入れて国際恋愛を自慢する意味がわからない、

・外国人だから選んだってどうなの、

みたいなことで論争が繰り広げられているみたい。

 

炎上している案件の実際を知りたいとかそこに物申したいのではなく、ここでは国際恋愛を実際にする1人の人として自分の意見や考え方をまとめたい。

 

色々考えていて出た答えは「私はあえて日本人ではなく外国人を選んだんだ」ということ。

 

そこだけ言えばこれも炎上案件かもしれない。でもそうではないと思っている。

 

外国人をパートナーに持つとは。

 

 

誰でもいいという意味では決してない

国際恋愛をしている私がまず初めに断っておきたいこと。

 

私は今のパートナーを「外国人だったら誰でもいいから」という理由で選んだ訳ではないということ。

 

約3年一緒に居るけれど、色々なことを経て今も一緒にいるパートナー。

 

パートナーの選び方は日本人をパートナーに持つ人でも人それぞれでしょう、もちろん私のような外国人をパートナーに持つ人にとってもそれは同じ。

 

始まり方も

・趣味があったから

・一緒に居るうちになんとなく

・自分から熱烈に

・相手がどうしてもというから

・お互い好きになって

・嫌じゃなかった などなど

 

誰しもがどんな理由であれ、色々なシチュエーションやタイミング、条件の中でパートナーを選んでいてそんな中の1つとしてもしかすると「本当に誰でもよかった」なんて人がいるのかもしれない。

 

けれど私は「誰でもよかった」と今は思っていない。

 

今は?

 

過去にそう思っていたわけではないけれどそれに近い事があったと、今回振り返ってみて自分に変化があった事に気づいたのだ。

 

人は変わる。そこにも触れて行きながら話しを進める。

 

とにかく私は今のパートナーに関しては「誰でもよかった」訳ではない。

 

けれど「外国人の中から選んだ」というのは事実だ。

 

それってどういうことか。

 

25歳の時の日本人の彼氏が教えてくれたこと

さかのぼる事約10年。

 

当時私は職場の先輩とお付き合いをしていた。歳の差10歳。

 

その時は彼の見た目の若さと、フットワークの軽さで「歳の差なんて関係ない」と感じていたけれど、今思うと当時の私は未熟過ぎた。

 

今、当時の彼の年齢になってわかる。彼はそれなりに大人だった。少なくとも私よりは。

 

これから書くのは当時の私にはわからなかったこと。

 

 

25歳の頃の私は世の中は自分の尺度が全てだった。

 

自分の思い通りに何もかもが動くかのように思っていた気がする。

 

顕在的に考えていた訳ではないけれど、自分ができることは周りの人も同じようにできると思っていたし、考えも自分と同じようにみんな考えているのだと潜在的に考えていた気がする。

 

つまり自分の良さも悪さも、強さも弱さも、個性ではなく「だいたいみんなおなじようなものでその差は小さいはずだ」と。

 

まさに枠からはみ出ないことを良しとする教育をされてきた賜物だなと今振り返ると思う。

 

そして、学校時代にはよかったのか悪かったのか私は平均点以上取れるのが自分にとっての普通だった。できないことは練習もしたけれど、「できない」をあまり経験せずにきたと思う。

 

そんな可愛げも個性もない(気づいていなかった)私に気づきをくれたのが当時の彼だ。

 

しかしそれは残念ながら別れの時だった。

 

「みんな一緒」と思っていた私は相当彼にも「同じ」を求めていたんだと思う。

 

一番最後の喧嘩だったと思うけれど、35歳の男を私は泣かしていた。相当傷つけたんだろう、彼は「俺に自分の当たり前を押し付けるな」と言った。

 

この言葉がものすごく当時の自分には重く、やっと私は色んなことに気づけるようになった。

 

海外に行く事にもなった私がひっかかった日本の常識

彼から自分と他人の違いを学び始めた私は、彼との別れから数年後、海外に出た。

 

そのきっかけは「普通」や「常識」というものの存在に悩んだから。

 

彼からは、「人はみんな違う」ということを学んだのに、自分に押し付けられる感覚のある「日本社会の普通」。

 

それって常識なの?みんなしなくちゃいけないの?違う道はないの?みんな違うのになんで同じ選択をしなくちゃいけなかったり他の選択肢は認められないのか。

 

そもそも勝手に自分がそう思い込んでるのかもしれない。

 

そんな思いを、違うところに身を置くことで見られる何かを期待していた。

 

海外に出てすぐの頃の私、「とりあえず外国人」

オーストラリアに渡った私はとにかく色んな人と出会った。

 

語学学校では世界各国に友達ができた。

 

外国人も日本人もとにかく日本ではあまり出会わない人タイプの人たちにたくさん会った。

 

 

男の人ともたくさん出会った。

 

その時の私は「外国人の彼氏が欲しい」と思っていた。

 

深く考えてはいなかったが、「なんとなく気が合えば誰でもよかった」のかもしれないとさえ今は思う。

 

もちろん、こういう人がいいという条件みたいなものはあった。

・青い目の

・金髪の

・英語ネイティブの

・背が高くて

・筋肉質の

・おもしろくて

・かわいい  彼氏。

 

そしてそんな彼氏ができた。

 

彼の人柄が好きだったし、見た目もタイプだったしそれはそれはハッピーだった。

 

見た目や考え方、育った場所も環境も何もかもが違う相手に今までない経験をさせてもらったし、相当楽しかった。

 

自分が悩んでいた「普通」はそこにはなくて、「個性というよりもその人をまるっと受け入れること、認め合うこと」そんなことを感じていた。

 

それでも自分の中にどこか「外国人の彼氏がいるステータス」みたいなものを感じていたことも事実だった。

 

かっこいい彼氏。最高じゃないか!

 

個性を受け入れるとか言いながら「外国人ブランド」は間違いなくあった。

 

だから「誰でもいいから外国人の彼氏が欲しい」という意見の人が居ても私は100%否定はできないのだ。

 

かつての自分がそれに近かったかもしれないと思うから。

 

今のパートナーに求める「あえて外国人」の理由

オーストラリアでできた彼氏をはワーホリ終了と共にお別れした。そんなもんだったんだな。別れたくなかった私は引きずりまくったけど、別れるべくして別れた。

 

それだけ。

 

そこからニュージーランドに来たわけだけれど、今もいわゆる「外国人」と一緒にいる。

 

この数年で色んなものの捉えかたや考え方が自分の中で変わったんだろうと思うけれど、今は「この人とならずっと一緒にやっていけそうだ」と思っている。

 

そして、たまたまそう思えた人が「外国人」だったなんて綺麗な所に収まった気もしている。

 

それでも私は自分はあえて「外国人を選んだ」と思っている。

 

それは実は「日本人でもありえる」ことなんだけれど。

 

それは私が一番感じる外国人とは、外国人=自分の常識や当たり前が通じにくい相手ということ。

 

昔の彼から学んだ今でもなお自分の中には自分の常識というものが根強く取り巻いていて、私はその自分の持つ基準を人に求めがちなんだと気づいたときに、自分の潜在意識はなかなか変えられられないと気づき、変えるのではなく常識が通用しない環境に身を置くことを選んだのだ。

 

過去に自分が彼を傷つけた、彼が泣きながら教えてくれたことはこれから生きていくうえで忘れてはいけないと思っていて。

 

そう思った時に、全然違うバックグラウンドや言語、経験を持ち「私の当たり前が相手の当たり前ではない事」をずっと忘れずにいられる相手が私には必要だった。

 

だから「外国人の中」からちゃんと今のパートナーを選んだつもりだ。

 

だからきっとそんな自分の常識とは違うと思えるような日本人の人ともし出会っていたらそんな道もあったのかもしれないと思う。

 

実際に私が最後に恋におちた日本人は実際全然私の常識が通じない人だった。そこに私の価値観を置いていたということ。

 

パートナーに求めた最低限の条件が「自分と違う価値観を持っている人」であり、その上にその人の考え方や雰囲気やパートナーとしてやっていけるかという条件が乗っかって。そんな時にであったのがニュージーランドに住んでいるニュージーランド人だった。

 

背は高いし、面白い人だけど、目は青くないし金髪でもない。英語ネイティブがいいなんて思っていた頃が信じられないほど今ではもっと簡単にコミュニケーションが取れたらいいのに、とも思う。

 

なんなら私はニュージーランドに惚れ込んでこれからもニュージーランドにどうしても住みたい!!!と思っていた訳でもないし、流れに流れてニュージーランドにいる。

 

それでも彼といる理由、それは「外国人だから」ではないことはわかっていただけるかなと思う。

 

簡単に永住権が取れていいよねという論争も国際恋愛にはつきものなんだけれど、それも結構色々あるよ?と思う。これはまた別の機会に話したいかな。

 

≪まとめ≫Twitterで論争しても意味がない、全員の意見が正しい

自分の恥ずかしい未熟な過去をさらしてきたけれど、共感してくれる人はどれくらいいるだろう。

 

今では「たまたま選んだ人が外国人でした」みたいな綺麗なところに収まった私も、外国人ブランドに心躍らせていた時期があったし全然できた人間ではない。

 

でも日本人をパートナーとして持つ人だって同じように高学歴や高収入、実家のあるなしや、長男かどうかで相手を決める人がいるんでしょう?

 

多かれ少なかれみんなそんな条件みたいなものがお互いにあって、それが合致してカップルになっていると思うんだけど、私個人的には、そこに「外国人」というワードがのっかっただけで炎上の度合いが増すのは、いまだに日本が多様性に全く対応していないことの表れだと思っている。

 

日本ではない場所に住んで一番思うのは「外国人」なんて特別でもなんでもないということ。世界の中を「日本人」と「外国人」に分けるのなら「外国人」のほうが圧倒的に多いのだから。そもそもこの分け方自体が鎖国の名残?いつの話?とも思うけど。

 

世界のマジョリティである「日本以外」をマイノリティとして扱ってる日本の矛盾は滑稽でしかない。

 

日本ではマイノリティな国際恋愛だから叩かれたり炎上するほど意見が白熱する事態になるのだろうけど、どんな意見もその時々のその人の考え方でありもしそれが他人に受け入れられないものだとしてもイチ意見な事に違いはない。

 

どんな出会い方や選び方をして、もしそこにどんな腹黒い理由があったって2人がその時幸せだったらそれでいいんじゃないのかと思う。

 

人はそれぞれ違うライフステージにいて、見えてるものが違うのに「国際恋愛」という共通ワードだけですべてを話すこと自体無理がある。そこに熱を入れるのは何とも不毛なことだ。

 

それぞれがそれぞれの立場で、自分の人生を考えたり楽しんだりすればいいのではないか。「外国人ブランド」に浮かれた過去がある自分だからこそそう思う。

 

振り返れば自分の中にある「違う価値観や常識を持っている人」というパートナーに求めるニーズはしっかりしていたのに考えが浅はかだったことが数年前の私の事実。だって実際にその時はただ単純にかっこいい外国人の彼氏が欲しいと思っていたんだもの。

 

そこから少し大人になって「外国人の彼氏」に求める意味合いを自分の中で落とし込んで行けたからこそ「たまたま一緒にいる事になったのが外国人でした」になっただけ。

 

イメージ的に言えば、キラキラした国際恋愛から、より現実的な落ち着いた関係へ移行した感じ。

 

 

ニュージーランドではインターナショナル リレーションシップなんて単語をほとんど聞いたことがない。

 

多様性の国ニュージーランドのそんなところにまだまだ戸惑う事の多い「純ジャパニーズ」だけど、この多様社会の一員として日々刺激を受けているしこんなバラエティに富んだニュージーランドが好きだ。

 

日本でもいつか国際恋愛なんて言葉なくなる日がくるかな?

 

まぁまだまだなくならないだろう。

 

国際恋愛が特別なものではないという事実はあれど、実際のところ日本ではまだまだ特別なものという矛盾のなかで私は「外国人をパートナーに持つ日本人」として生きていてその苦労はやっぱり同じように「外国人をパートナーに持つ日本人」と共感しやすい状況にいるのもまた事実なのです。